小塚大師

小 塚 大 師(遍智院)

小塚大師

~弘法大師ゆかりの寺~

~弘法大師ゆかりの寺~

小塚大師マップ(館山市立博物館)をもとに製作

小塚大師とは(概要)

嵯峨天皇の弘仁6年(815)に、弘法大師が創建したと伝えられている真言宗の寺院で、曼陀羅山金胎寺遍智院というのが正式名です。神戸地区大神宮の字小塚にあって、弘法大師を本尊にしていることから、俗に小塚大師の名で親しまれています。関東厄除三大師のひとつで、毎月21日がお大師様の縁日です。特に旧暦の正月にあたる1月21日の初大祭には、たいへんな賑わいをみせます。またこの小塚大師をはじめ、周辺には弘法大師にまつわる伝説も多く残されています。

初大師縁日の賑わい

小塚大師の由来

 弘法大師がこの地に滞在したときに、忌部氏の祖先神が現われて、大師に木像を刻むように告げました。大師はお告げの通り、二体の像を彫って、一体を布良崎の浜から流したところ、今の神奈川県に流れ付き、川崎大師(平間寺)の本尊になったと伝えられています。もう一体をこの地に祀った場所が小塚大師です。現在もご本尊として祀られています。

御詠歌  額の装飾は後藤義光の作。見事な彫刻が施されている。

加羅陀山 荒野の山へと へたつれと くもいはおなし 遍照の月

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

 宝篋印陀羅尼経という経文を納めた塔で、中国で始まりました。日本では平安時代末から供養塔・墓塔として建てられ、その後江戸時代になるとお寺の境内にも作られるようになりました。ここの境内にある塔は、三十一世住職伝海を発起人に、地元の高木吉右衛門と近隣の村々の光明講が中心となって、文化14年(1817)に建てられました。石工は北条村新宿の加藤伊助・金助・伊兵衛と伝えられています。

宝篋印塔

手水石(ちょうずいし)

 参拝者が手や口を清めるために水を湛えておくもの。文政10年(1827)に神余村の住吉屋徳兵衛を中心に、安房国内の51か村130人以上が協力して奉納しました。石工は長須賀村の鈴木伊三郎で、正面に浮彫りされた二匹の獅子が見事です。

手水石

佐野翁紀德碑(さのおう きとくひ)

明治34年11月神戸村の佐野吉左衛門の農業改良に対する多大な業績を記念して建てられた。吉左衛門は長年、開墾や植林・灌漑などに従事しながら、博覧会や共進会に参加し、農業技術の開発と普及に努めた

石燈籠

天保6年(1835年)11月、布良を中心に近在の人々によって奉納された。正面に常夜灯とあり、夜間の歩行の安全が目的。

阿加井(あかい)

 正式には閼伽井と書く。仏前に供える水を汲み取るための井戸で、むかし、弘法大師がその井戸に自分の姿を映して木像を彫ったという伝えがあります。

阿加井

福原家の墓

資生堂創業家 福原家の墓。福原家は旧松岡村の名家で、漢方医福原有斎の孫、漢学者福原有琳の四男 有信はのちに資生堂を創業しました。また、生命保険制度の確立も尽力しました。(詳細は、松岡神社へ)

福原家の墓

館山市神戸歴史探訪(南部)地図