松岡八幡神社
~資生堂創業者 福原有信ゆかりの神社~
松岡の地名のもとといわれる「松の木」
「松岡」の地名は大きな松の木があったことに由来するといわれています。写真は昭和初期のものとみられます。この松は、昭和33年、松くい虫の被害にあい、切り倒すことが決定されたそうです。
一方、安房神社の祭礼に入祭する際、各地の神輿が集合して待ち合わせたので、「待つ岡」から「松岡」になったという説もあります。
碑文
福原有信 1848年、漢方医有斎を祖父に、漢学者有琳を父に安房国松岡村に生まれる。17歳にて幕府医学所に入り、西洋薬学を学ぶ。更に大学東校にすすんで研究を続けたのち、24歳にて海軍病院薬局長となる。しかしかねてより、西洋医学を一般社会に生かし、医薬分業を図りたいと願っていたことから、官を辞し、1872年我が国初の民間洋風調剤薬局、資生堂を創業。追って医院を設置して、自ら医薬分業を実践する。調剤のほか、製薬事業にも進出し、洋風処方による各種の医薬品をつくり、広く各地に普及させる。資生堂における事業のほか、1884年、大日本製薬会社を創立して製薬の近代化を押しすすめ、また薬舗会、薬剤師会を結成して制度の改革へ導くなど、業界の発展のために尽力する。1887年、帝国生命保険会社(のちの朝日生命保険相互会社)の開業に発起人の一人として参加し、自らも第3代社長をつとめ、31年間の長きにわたって生命保険事業の育成と発展に貢献する。文明開化はすすんで、1897年、資生堂から我が国初の薬学的処方による化粧品を発売する。西洋薬学から学んだ学識と技術があって初めて成し得たことであり、世界有数の化粧品会社へと発展させる第一歩をしるしたものである。その他、多くの事業を興し、多くのものを創り、多くのものを残して、歴史の中に輝いている。1924年3月30日永眠 享年75歳 従五位勲四等瑞宝章叙勲。
「椿の森づくり事業」と金毘羅様の復元工事
平成28年(2017年)から「椿の森づくり事業」が行われ、山を切り開いて、椿の植樹を行いました。
令和元年房総半島台風による被災
令和元年房総半島台風により被災、神社の裏山が大きく崩れました。植樹された椿も多数倒され、金毘羅様へ上る階段も崩壊しました。地元住民が倒木の処理を行いましたが、急斜面で危険なため、今も残されているものもあります。